春来たる君の軌跡

統合失調症を発症するも回復し、日々前向きを目指しているお兄さんです。

ぱる執筆開始

 「あれだけの仕事をしたんだからお前ならなんだってできる」 

当時21歳だったのでちょうど20年前にお世話になった上司の言葉は僕の人生の宝になっている。その時働いていた工場で僕は仕事への取り組み方、人付き合いの難しさ、面白さを学んだ気がしています。その工場で他に携わっていただいた方の言葉で印象に強く残っている言葉は「俺らなら死に物狂いでやるのになあ」と途中で持ち場を辞めていった若者への役職のついている立場の方の言葉。同じ班に居た先輩の途中で投げ出したけど戻ってきた者への「自分の仕事に責任持てよ!」と強い言葉での激怒しながらの仕事の向き合い方を教える姿が故郷を離れ、出稼ぎに出てきて間もない世の中を知らない僕には強烈な印象を持った言葉でした。特に今では誰もが知っている大手企業の現場の管理職の立場の人が死に物狂いで仕事へ取り組む意気込みが必要なんだなあと緊張感を持ったのを今でも覚えています。 

当時付き合っていた彼女にふられて出稼ぎに出たのだが、夏季休暇の時に青森から愛知に元カノを招待して名古屋の街並みを見せたい等と同じ班の人に話せるようになり、別れているのに呼ぶって羨ましいな、工場見学が一番楽しいデートになるで。連れてきいや。等と人間関係も良好でした。 

部署が異動になり、新しい班では愛知が地元の歳も近いお兄さん方に可愛がられ仕事終わりや、休日も楽しめるようになりました。 

一方で寮に帰ると話をする人がおらず、津軽弁を話す青森出身者は多数入寮しているのにきっかけを逃してしまい孤立していました。 

食事をする際や入浴をする際も誰とも話さず一匹狼のように振舞っていました。すると寮の食事を作ってくれているおばちゃんの声で、「絵になるねぇ」「昔の人はわかるんだよ」などという声が聞こえてきたのが気になり、僕に向けて言っているんだろうと意識し始めてしまい寮でリラックスして過ごすことができなくなりました。次第に入寮している労働者達からもいい気になっている、喧嘩を売られるのではと思うようになりました。 

仕事の方も体力を使うし頭も使うし間違うとラインを止めてしまうポジションに居たので神経が殺気だってくるようになり、ある日出勤前にご飯を食べる箸が持てないくらいの震えが出て、恐怖心も強く出たため、もうここで仕事はできないと思い、その日のうちに突発ではあるが退職することにしました。会社に向かうバスの中で津軽弁を話している同郷の人に『もうだめだ。辞めるよ」と話かけてみたら「病院いった?」と返してきた人がいて、その人が他の青森メンバーに話してくれて、最後のバスで降りるときに静かだった車内の後ろから「青森だべおらんどな」と聞こえてきて、やはり同郷の若者の僕を気にかけてくれていたんだなと思い、胸が熱くなりました。 

役職者の最後の言葉は優しく「病院いきなよな」とポンとお尻を叩くものでした。後から考えると傷病手当金がもらえるからなのかとも思いましたがその当時は、なんという最後やと、思うばかりでした。 

他の役職の人は遠回しに青森の桜見に行きたいなあ、海産美味いよなー等話していました。その中で実際僕の仕事を見てくれていた長の方の「あれだけの仕事をしたんだからお前ならなんだってできる」と言ってくれた言葉が汗を流して神経すり減らした自分への労いだと思い、今自分に自信を持てているのもそのおかげと思っています。 

渋沢栄一は言っています。世の中で成功者と呼ばれる人々は、必ず、「あの困難をよくやり遂げた」「あの苦痛をよくやり抜いた」というような経験がある。これがつまり、心を引き締めて取り組んだという証拠である。と言っています。 

なにをもって成功者というかはひとそれぞれだとは思いますが、この歳になって意味が分かった気でいる次第です。 

 

 

寮生活のあとは名古屋でできた彼女との同棲生活が始まるのですが、一度ここで文章を終わります。 

 

ぱるブログ第一回を読んでいただきありがとうございます。これからもお付き合いよろしくお願いいたします。