春来たる君の軌跡

統合失調症を発症するも回復し、日々前向きを目指しているお兄さんです。

ターニングポイント

寮の管理人さんには最初のころは挨拶をしていたが入寮者のほかの人達を見て、おはようございます。お疲れ様です。など挨拶はしなくてもいいものだという習慣がつき管理人さんとのコミュニケーションもなくなってしまっていました。今となれば田舎から一人で出てきた若者のことを気にしない管理人なんていないだろうと思えるが、おそらく僕が話しかけづらいオーラを出していたのだと思います。退職することを管理人さんに伝えて、実家に戻るわけではなく彼女ができたので彼女と暮らします。と話すと、凄く嬉しそうにそれでいいじゃないかあーと喜んでくれて、立つ鳥跡を濁さずって言葉があるんだよ。と最後にその言葉を言っていただき、僕もお世話になりました。とちゃんと挨拶をして寮を出ることになりました。 

おはようございます。お疲れ様です。の挨拶ができていれば違った寮生活になっていたかもしれないと思いますが、挨拶の必要性を学べたのでいい経験をしたと思っています。 

 

いよいよ寮を出て引っ越しするのですが、引っ越しは同じ季節労働者として地方から出てきた同じ班の仲間が車を持っていたのでその人が片道一時間弱の距離の彼女のアパートまで二往復してくれて無事終えました。彼は引っ越しの打ち上げでもしようよと誘ったけど俺はいいよと言って部屋でゆっくりすることもなく帰っていきました。とてもお世話になったし場の雰囲気を柔らかくしてくれる優しいお兄ちゃんという感じの人でした。 

彼女と引っ越し祝いでピザの宅配をして人生初の同棲生活はヒモ生活から始まったのだが、寮生活とすさまじい仕事量の職場の往復をしていた僕にはオアシスのようなその空間が疲労しきった身体を癒してくれるには最高の場所でした。 

しかし青年期に入り間もない僕は一歳上の彼女に対してデートに出てもなんか自分が気分悪いとデートやめて帰るぞと偉そうにしたり、他の街行く人々に対抗意識を持ってしまうなどとげとげしい部分が多かったです。僕の地元は地下鉄もなく電車も30分に一本しかない田舎で、車移動が普通で実家に帰り車でデートしたい、地元の仲間に会って遊びたいと思うようになり、家族にも会いたいしなあということでちょうどゴールデンウイーク近いし、その時に青森来てよということで、リフレッシュしたし名古屋の街並みも堪能したので実家に帰るよといい、遠距離恋愛をスタートすることになりました。 

途中静岡に居た兄のアパートに寄り、難しそうな本が置いてあるし女っけが感じられないし、この人はどうゆう生活をしているのかと興味がわいてきましたが近所の小料理居酒屋に連れて行ってもらった際に女将さんと楽しく話しながら美味しいお酒を飲んでいる姿を見て、この人は幸せなんだなあと安心したのを覚えています。 

静岡から仙台は新幹線で行ったが切符の買い方にも乗り方にもすごくドキドキしたのを覚えています。仙台駅周辺も散策してみると僕の田舎とは全然違うし色々な飲食店があるし今度また来ようと思っても行けないで20年が経とうとしています。旅行は行きたいし会いたい人もたくさんいるし後悔ないように生きたいと最近また思うようになっています。 

仙台から弘前はバスを使って帰ったのですが、前年の12月に父方の祖父が亡くなったと知らせが入った際に一度夜行バスで名古屋から弘前まで乗っていたので一度目の岩木山の感動よりはないものの、やはり青森の岩木山は立派に見え、青森に来る人々を出迎えてくれる存在です。祖父の葬儀ではいろいろなことを思いましたが両祖父母の中では最初に亡くなったので、死を身近に感じた出来事だしその時愛知で一人色々と考えて暮らしていた時期が人生のターニングポイントだと思っています。青森空港から名古屋空港へ帰る飛行機の夕日とともに雲の中へ入ったあの絶景は40年暮らしてもあれほど美しい景色は見たことはなくおじいちゃんが空へいったことを印象づけた思い出です。 

 

弘前バスターミナルには父が車で迎えに来てくれたのだが車中の会話で今でも覚えている話があります。僕の同級生の仕事を父が知っていて、あの仕事も大変な仕事だよなと話しかけてきた際に「どうせバイトだべ」としか返せなかった自分がいました。すごく頭を使い身体を使って仕事をこなして帰ってきた僕は自信に満ち溢れていて、そのひとがどんな思いで仕事に取組み、苦労などもあるだろうが考えもせず、考えたところでたいしたことない仕事だろ、という調子に乗っていた自分であったと思い返せます。父は思いもよらない僕の返答に多少戸惑っている様子でした。 

実家に無事着いて家族の顔を見てほっとした気持ちと、社会人になって三社目のこの期間工の仕事で県外に出て色んな感性への刺激をもらい自分の本来持っている才能を開花できたのではと思い、人生にワクワクしだしていました。 

当然地元で仕事を探して働くことにはなるのだが、当時父からは今何も仕事しないで遊べるのも人生の中で今だけだろうなあと言われ、家にお金を入れるわけでもなく遊ばせてもらいました。名古屋の彼女も青森に呼ぶことができて弘前公園の桜まつりにも一緒に行けたし、父が僕に買ってくれたセダンでドライブデートする話も実現できました。 

当時ハローワークに行って失業給付の申し込みをすると6ヶ月の契約満了で退職してきた場合はすぐに失業給付を一時金でもらえたのだが、僕の場合勤務延長をして10ヶ月の途中の自己都合退社になっていたため、一時金は三ヶ月後に入ると知りました。ハローワーク職員からは何があったかは知りませんが病院の通院証明などあったらすぐに入金できるんですけどと言われ、その時に初めて病院行けよと上司に言われた言葉を理解しました。しかし当時は実家暮らしで家にお金をいれなくてもいい生活をさせてもらっていたので3ヶ月なんてあっという間だろうし焦りもしない気持ちでいたので三ヶ月後の一時金を待とうと思ってしまいました。地元の仲間と飲みに行ったりハローワークで求人を閲覧したりする生活が始まりましたが、同居している家族は仕事に行くし祖父も毎朝早く田んぼに仕事に行って夕方まで作業する仕事大好きな人だということを小さい頃から見ていてよくわかっていたので仕事しないでただ3ヶ月過ぎるのを待つというのがとても気まずく、夕飯時の晩酌でも特に祖父にどう思われているのか気になるし父も仕事終わりの晩酌をしているのに1日これといった充実した過ごし方ができていなかった僕には愛知時代とのギャップの落差に苦しみ始めるようになりました。名古屋の彼女は僕宛にメッセージレターを郵送してくれる可愛らしいところがたくさんある子でした。夜になると電話で話すこともありましたが、遠距離恋愛の先が気になるし昔から結婚願望が強かった僕には彼女が青森に嫁ぎに来てくれるのかが悩みどころでした。彼女ともそういう話もしていたがそれはまだ先のことだからわかんないじゃんという返事でした。彼女のしていた仕事はキャドの仕事だったので、青森の企業でも求人雑誌にキャドオペレーターの仕事は給料も高いし求人も常にある職種でした。僕の実家ではりんごも作っているよと話したときには凄い興味をもってくれて実際に見てみたいし収穫作業もしてみたいとニコニコ話ていた姿は今でも覚えています。ゴールデンウイークにきた時に実家に呼んで畑も見せたかったが、母に聞いたときに結婚決めてるわけじゃないしホテルに泊まれと言われて家族にも紹介できませんでした。そんな彼女とのことも気になるし家に居づらさを感じていた僕はもう一度愛知の工場に行くことを決めるのです。