春来たる君の軌跡

統合失調症を発症するも回復し、日々前向きを目指しているお兄さんです。

たしかなこと

同棲と結婚生活合わせて10年を寄り添った。30歳から40歳までの良き時を喜び合い、辛い時を乗り越えて妻と暮らしたのは人生の宝となった。 

なぜ夫婦生活が終わったかというと妻をもっと大切にできたはずなのに僕は自分中心に夜の街に出てしまい、寂しい思いを何回もさせてしまったことが一番だった。 

ストレス発散のつもりで出ていたのだが、妻は他の女性に相談や気晴らしで話に行くのが理解できなかったらしい。中には旦那のそのような行動を理解できる人もいるだろうが妻は違った。僕は妻に外に飲みに行くのを10年もの間我慢させていたのは申し訳ないと本当に思う。 

最初のうちは夫婦で居酒屋やスナックにも行ったが、そのうち妻は二人で外食するのを節約させたいと言い、本当は嫌なのだろうが僕に一人で行ってきなよと言って出してくれた。 

妻が二人の家計のそういうところを考えてくれたので生活は10年間持ったのだと思う。 

実際僕は41歳の今年生活を破たんさせてしまった。 

ある人から強い侮辱を受け、それがきっかけで本来の自分を見うとともに、離婚後の傷心もあったが環境の変化が思ったより強く僕の精神状態を狂わせた。 

今年厄年ということも関係しているのかはわからないがその人からの侮辱の強いストレスからの下血から始まり、勤務中に転倒して足の捻挫もあり力仕事からの転職をすることになる。 

就職はすぐに決まった。グループホームの宿直員の仕事で、三ヶ月アルバイト契約後正社員雇用となる予定だった。 

グループホームの管理者の方からは利用者からの評判も良く順調に行っているという評価をいただいていた。  

私生活では夜の街に出る回数も多くなり夜勤の時飲めない分の発散として外に出歩いていた。 

ある日の日曜日、僕は病気の再発の寸前まできてしまう。 

前に勤めていた時の職場の店長に急に会いに行こうと思った。道中の途中で寄ったコンビニに来る車が県外ナンバーというわけでもないのだが、僕がこのコンビニに寄ることを予想して意図的に送られてきているエキストラ的な人達に思ってしまう。コンビニ店員たちもいつもと違う特別な日であるというのを知っていながら作業していると思った。 

前の職場の店長がいる店に着いた時もお客さんが役者のように見えたり、車で見るテレビもまた以前のような意図的に放送している特別な作りのものと考えていた。 

店長に会いに行ったのは店長の名刺をもらっておくほうがいいと思い込んだので行動してしまった。 

この時はまた中継されている妄想にかられていて自宅から今までの一連の流れを監視されていると思いイライラしていた。 

実家の両親に限界だと言おうと思い実家に向かう。 

実家に着いて見るのをやめてくれと言った。両親はまた僕が再発したと思っただろう。日曜日だったが緊急外来で診てもらうことにして、病院に電話した。 

実家の居間から電話したがそれも病院側で監視していると思い込み意味のないやり取りをさせやがってとまたイライラしていた。 

父が運転して病院に向かい、20代の頃入院したあの日のようになるのかと思ったり、これは妄想なのかリアルなのか分からずにいた。 

病院に着いて休日外来の入り口を探す父も演技しているのかと思ったので昔の体感と同じだった。 

この日の担当医は何回か診てもらったことがある先生だった。 

僕は辛いです。と言った。一分一秒が辛いです。 

というと、あぁ辛いですか。 

と何がどう辛いのか聞かず、二日後受診日なのでまた来れますかと言って、前ももらったことのある頓服薬を処方されるだけだった。 

あとから回復してから考えるとこれが現代の精神科の診察なのかと感心したが、僕の状態を診ての診察でそれが最適だったのだろうし正しかったのだろう。 

帰りの道中から落ち着いてきて徐々にそれが妄想だったのだと思えるようになってきたが、いつまた再発してもおかしくない病気を抱えているのだと思うと、生きることに緊張感がしょうがなく出てしまう。 

グループホームの宿直員の仕事はやりがいを持ちやっていたのだが、僕の譲れない信念的な部分を壊されることが仕事の上で多々出てきて限界がきて辞めることになってしまった。上司と同僚には感謝しているしいい経験になった。 

精神状態も決して穏やかな日々では無かったのでなるべくしてなったと思う。 

退職していよいよ窮地になった時はやはり親に頼った。 

頼ることができる親がいることに本当に感謝したし、申し訳なくも思った。 

友達にも感謝している。 

落ち込みすぎた気持ちを救ってくれたのは友達だった。 

元嫁の存在もとても大きかった。私のわがままで別れたのだから困ったら頼ってねという言葉に甘えて相談したり、気晴らしに付き合ってもらったり心の支えで居てくれている。 

親、兄弟、大切な人の存在を見失いかけた時もあった。 

本当に苦しかったのは人生で今年かもしれないという出来事があった年である。 

 

僕はもう大切なことを見失うことが無いように生きなくてはいけない。 

色々なことを勉強したがこれからも勉強は続く。 

 

ただ言える確かなことは、今生きているということが素晴らしく幸せなことであるということです。